パリ五輪
皆様はパリ五輪をご覧になったでしょうか?
元々スポーツ観戦が好きな私は、寝不足になる程しっかり観戦しました。
実は、スポーツ観戦がメンタルヘルスに良い影響があることは、幾つかの大学の研究で報告されています。
例えば大人になると、周囲とのバランスをとるために、「はっきりものが言えない」グレーの状態でお付き合いをする対人関係があると思います。
それに対して、スポーツ観戦はグレーではなく勝敗が白黒はっきりしているため、自分のモヤモヤを代理解消してくれる効果があるそうです。
これを心理学では「心の代理機能」と呼んでいます。
しかしこの度のパリ五輪は、純粋にスポーツを楽しみたい人にとっては、疑問の多い大会となりました。
- 明らかに誤審を疑われる審判の続出
- 国名の間違い、国歌の間違い、国旗の間違い
- 開会式では、マリー・アントワネットの「生首」や、キリスト教を揶揄した演出
- 劣悪な環境の選手村とヴィーガン食の強要
- セーヌ川での競技で体調不良を訴える選手
- 選手への窃盗事件が起こるセキュリティの問題
これらの出来事に対して、詳しく述べることは当サイトの趣旨から外れるので避けますが、スポーツと平和の祭典であるオリンピックとして何かがおかしいと感じます。
多様性とは何か
さて本題に入ります。
開会式の演出については、世界に衝撃を与え非難が殺到しました。
公式スポンサーが撤退したり、閉会式をボイコットする国が現れたり、ローマ教皇庁は「あってはならない表現」と異例の声明を発表しています。
大会組織委員会は正式に謝罪し、開会式の動画は削除されましたが、出演者や演出側は反省している様子がありません。
開会式の芸術監督によると「多様性の受け入れや優しさ寛容さ」が演出のねらいだったと説明していますが、明らかに多様性を履き違えています。
ここで改めて「多様性」の意味を整理しておきます。
まず、「多様性」とは何でしょうか?
いろいろな種類や傾向のものがあることです。
では「多様性を認める」「多様性を尊重する」とは、どういうことでしょうか?
人の考えや特徴、価値観もいろいろな種類があり、その違いを認めよう、という意味です。
過去には、「男だから…、女だから…」とか、「いい年をして」とか、「外国人は…」という時代がありました。
現代は、そのような固定観念から解放されて、もっと自分のやりたいことを選択できる、社会の目を気にせず自分らしく生きていける世の中にしていく、というのが「多様性を認める」意味だと思います。
私もこれについては賛同します。
しかし、この多様性に対する誤解や多くの問題が発生しているのは看過できません。
多様性の本質
多様性の本質を理解する手掛かりとして、次の3点を考えてみます。
- 多様性を「認める」と「受け入れる」は違う
- 認める:私はこれが嫌いだけど、それを理由に排除や攻撃はしない → ◯
- 受け入れる:私も好きになる → △ / (嫌いだけど)好きにならないといけない → ×
- 多様性は手段であって目的ではない
- これ以上、話してもしょうがない。
→ 認めるだけでは新しいものは生まれない - Aさん:営業に力を入れるべき
- Bさん:商品開発に力を入れるべき
- 多様性にはルールがある
例)Aさんはこれが好きなんですね
このように「認める」と「受け入れる」は違います。
「多様性」は、必ずしも「受け入れる」必要はなく、「認める」ことで、社会は問題なく機能していくと思います。
また、仮にAさんが、「あなたも好きになりなさい」「好きでないあなたはおかしい」というのは、相手の多様性を認めない、真逆の行為です。
何のために多様性を認める、多様性を尊重するのでしょうか?
「多様性を認める」ことが目的だとしたら、発展は期待できません。
例)Aさんはこれが正しいと思っている。私はこれは間違いだと思っている。
多様性を認める必要があるのは、その上位に目的があるからです。
例)会社の売上UPが目的
→ お互いの違いを認めた上で、目的を果たすために最適な戦略を考えること。
このために「多様性の尊重」が必要。Aさんだけ、又はBさんだけでは生まれない
新しいアイデアが期待できる。
「多様性はなんでもあり」だと勘違いしている人がいます。
例えば、家庭には家庭のルールがあり、学校には学校のルールがあり、会社には会社のルールがあります。
学校に遅刻してきた(健康には問題のない)生徒に対して、「彼の個性だから認めてあげよう」とはなりません。
法を犯した犯罪者に、「彼は全く悪いと思っていない」として無罪放免にはならないはずです。
あらゆる社会にルールがあって、「多様性」を盾に他者に迷惑や危害を及ぼすような行為は、「多様性」以前の問題として、しっかり線引きする必要があります。
多様性の誤認が社会を分断
冒頭に述べた、芸術監督の言葉「多様性の受け入れや優しさ寛容さが演出のねらい」について、検証してみましょう。
- キリスト教を揶揄する演出:宗教者や信者の多様性を認めない姿勢
- マリー・アントワネットの演出:イデオロギーの押し付け(多様性配慮の欠如)
- グロテスクで不気味な演出:多様性どころか精神的な暴力
- スポーツの祭典とは無関係なテーマ:多様性の目的を見失っている
- アスリートへの配慮に欠ける運営:多様性を謳いながら公平ではない選手団への対応を露呈
今回のパリ五輪によって、多様性を履き違えている人が、かえって分断を招き、社会を混乱させることがより明らかになったのではないでしょうか。
最後に、コーチングのコーチは「多様性」を意識することは当然のことですが、世間に溢れる「誤った多様性」に惑わされることなく、正しく「多様性を認め、尊重する」模範としての人間関係を構築していただければ幸いです。
- 「多様性を認める」が、必ずしも受け入れる必要はない。また、強要するのは多様性ではない
- 目の前の人と一緒に取り組む課題や目的のために「多様性を認める」
- 最低限守るべきルールの上に「多様性を認める」
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