コンプレックスは劣等感ではない
日本では「コンプレックス」を「劣等感」と同じような意味で使うケースが多いと思います。
しかし英語のコンプレックス(complex)は、複合的、複合体の意味で使われます。
シネマコンプレックスは、スクリーンが複数あって、映画館の複合体のようだからこのような名称になっています。
では何故日本では「コンプレックス」=「劣等感」のようになってしまったのでしょうか?
スイスの心理学者ユングによれば、人間の無意識の中で、あるイメージと感情とが「複合」している状態を「コンプレックス」と定義しています。
例えば、幼い頃犬に噛まれて怖い思いをした人は、「犬」というイメージと、「怖い」という感情が複合した状態となって、無意識の中に潜在します。
大人になってその経験を忘れていても、犬を見ただけで身体が反応する、という症状が表れるのはこの存在があるからです。
NLPではこれを、人間の中にある「プログラム」と呼びます。
3つの「劣等感」
ユングの定義した「コンプレックス」は劣等感に限らず、優越感もあるし、何かに対する愛着やその人の持つ観念など多くの種類があります。
それにもかかわらず、「コンプレックス」と「劣等感」が同義語のようになってしまったのは、アドラーの心理学が日本に流入した際に「劣等コンプレックス」の理論が広く受け入れられたからだと考えられています。
私達が使う「劣等感」という言葉に対して、アドラーは明確に次の3種類に分類しています。
- 劣等性
- 劣等感
- 劣等コンプレックス
「劣等感」は人間に必要
上記3つの違いを簡単に説明します。
◇ 劣等性
劣等性とは、AとBを比較した時に客観的な「差」があることを言います。
例えば、Aさん:身長170cm、Bさん:身長160cm、では明らかにBさんの方が身長が低いです。
客観的に差がある状態を「劣等性」があると言います。
但し、文字は「劣等性」でも、劣っているかどうかは別問題です。
◇ 劣等感
「Aさんは背が高いなぁ、それに比べて自分は背が低いんだ」と、Bさんが感じることを劣等感を持つと言います。
「劣等性」は客観的事実、「劣等感」は主観的な判断です。
「背が低い」と感じていても、それをどう捉えるかは人それぞれで、「劣等感」自体に善悪はありません。
「劣等感」は全ての人が持っています。
例えば、子供の頃は能力面でも体力面でも大人にはかなわないと感じます。これも劣等感です。
だからこそ子供たちは頑張って成長していきます。
憧れのスポーツ選手を見て「自分も将来一流のアスリートになりたい」と思うのも、劣等感が出発点です。
人間にとって「劣等感」は必要な存在です。
◇ 劣等コンプレックス
先程登場したBさんが「だから私はダメなんだ」「だから私はモテないんだ」などと背が低いことを言い訳にして、現実から逃げ出すことを「劣等コンプレックス」と言います。
本当はできると思っている「劣等感」
そもそも「劣等感」は、「そうなりたい」があって「今はそれができていない」から「劣等感」として成り立ちます。
出来る可能性が0(ゼロ)であれば、「そうなりたい」が無いので、「劣等感」も生まれません。
「そうなりたい」に近い状態の人を見ると、うらやましく思えて劣等感が生じます。
人間は「成長したい」「もっと良くなりたい」という欲求を根底にもっています。
「劣等感」はその成長を促してくれる原動力になります。
「劣等感」を理由にして「私は〇〇が劣っている(劣等感)ので、△△ができない」という「劣等コンプレックス」は、「劣等感」と明確に分ける必要があります。
居心地が良い「劣等コンプレックス」
「学歴が低いから就職は難しい」
「喋るのが下手だから恋人ができない」
「営業成績が低いのは私の容姿のせい」
これらは、人生を前進させる勇気が持てない言い訳に「劣等感」を利用しています。
もっと厄介なのは、「この劣等感さえなければ、私は〇〇なんだ」という暗示のような方法で、自分のプライドを保とうとすることです。
「劣等コンプレックス」を武器にして、「本当は有能な私」「本当は素敵な私」を示すことでむしろ居心地が良い状態を作ってしまうことすらあります。
冷静に考えれば「喋るのが下手でも恋人を持つ人がいる」「私の喋りが上手になれば恋人はできるのか」というと、それが問題の本質ではないことは容易に分かるはずです。
コーチングによって、「劣等感」は決して悪いものではなく、人生を前進させるエネルギーになること、「劣等コンプレックス」は単なる思い込みや勘違いであって、その正体が分かれば決して怖いものではないこと、本当はどうしたいのかなどを本人が気づけば、自ら新しい生き方を選択できるようになります。
写真:Christopher.Michel
この記事へのコメントはありません。