自分の意思ではどうすることもできないこと
人間には、自分の意思ではどうすることもできないことが二つあります。
一つは生まれることです。
自分で決意して生まれた人は、恐らくいないと思います。
生まれる環境も選べないし、誕生日も決められない、誰かに保護してもらわなければ生きていくことすらできません。
二つ目は、死んでからの後始末です。
身の回りの片付けもありますが、一番大きいのは遺体処理です。
死んでしまったら自分で自分の体はどうすることもできないので、誰かにお願いするしかありません。
このように、生まれることと死んだ後の処理は、絶対自分ではできません。
自分の意思ではどうすることもできないということは、誰かがそれを引き受けるということです。
「自分のことは他人に頼らず、何でも自分でできる」「他人に迷惑をかけることはない」と豪語する人も、この2点だけは他人に頼らざるを得ないのではないでしょうか。
第一の家庭と第二の家庭
この事と関連して、家庭について考えてみます。
自分がこの世に誕生したということは、必ず親がいます。
特殊な事情を除いて、基本的には親やその家族によって子供は育てられます。
そして人が亡くなるときは、伝統や慣習として家族によって送られることが一般的だと思います。
このように人間の一生は、第一の家庭で生まれ、第二の家庭で送られるという見方ができます。
この人生の出発と終着点を家族(他者)に委ねるしかないとすれば、この家庭は私の人生を決定する極めて重要な存在です。
私が作る家庭
例えば、生まれる環境と亡くなる環境を次のように想定します。
例_1:誕生
- Aさん:誰が親だか分からない。誰にも望まれずに生まれてきた。
- Bさん:私の誕生を、両親や家族が本当に喜んで迎えてくれた。皆から愛され、大切に育てられた。
例_2:最期
- Aさん:誰にも気づかれずに、一人で死んでいく。
- Bさん:自分のことを本当に愛してくれる家族や友人に囲まれ、感謝の言葉を残して旅立つ。
AさんとBさんを比較すると、明らかにBさんの方が幸せな人生ではないでしょうか?
例_1が第一の家庭、例_2が第二の家庭ですが、Aさんの場合はそもそも家庭が存在しないこともあり得ます。
これらの家庭は、誰によって形成されるでしょうか?
第一の家庭は、私から見て親世代によって作られています。
第二の家庭は、私が作る家庭です。
つまり、私の責任で作るのが第二の家庭です。
もし第一の家庭で、「寂しい思いをした」、「辛い期間を過ごした」としても、私が作る第二の家庭は同じものにする必要はありません。
「私はこのように育てられたので、このようにしか生きられない」という人がいますが、それは思い込みに過ぎないと思います。
解決すべき課題はありますが、私が思い描く理想の家庭を作ることは可能です。
そして、その家庭に子供が生まれてくるとしたら、その子の第一の家庭をどんな環境にするのかも私の責任です。
人間のライフサイクル
「私は家庭を作るつもりはないし、生涯独身で良い」という人の生き方は尊重します。
マザーテレサのように、生涯独身であっても、マザーと呼ばれるほど世界中の人から慕われる生き方もあります。
しかし、孤独死のように寂しく死んでいく人の悲しみと、自分の作った愛の家庭によって送られる人の違いは、自分の人生の生き様によって決定される、ということを是非この機会に、自分の身に置き換えて考えていただければ有り難いです。
第一の家庭で生まれ、第二の家庭で送られるのが、人間のライフサイクルではないかと私は考えています。
そして、自分の責任で作る第二の家庭によって、私の人生の価値が最終的に決まるのだと思います。
コーチングのコーチができることは、クライアントが第一の家庭に向き合う際に、それがどんな状況であったとしても、そこで何を学んだのか、受けたものをどう活かしていくのかを考えること、そして、どんな第二の家庭を作るのか、そのために何が必要なのか、を共に考えることだと思います。
最後に、家庭という枠組みについての補足です。
事情があって、血縁で繋がる家庭を持てない人もいると思います。
そんな人でも、肉親以上に親密で心を許せる友人や仲間たちを持てれば、それは私にとって家族と同様であると思います。
誰かに迷惑をかけずに生きることなど不可能です。少なくとも、生まれる時と死ぬ時には誰かのお世話になります。
私のために喜んでお世話をしてくれる家族や友人を持てることが、私の幸せにには不可欠だと思います。
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